昭和44年8月10日 月次祭●●
「信心を分からして頂く喜び」「信心を分からして頂く楽しみ」と。それには、やはり、信心の分からない、信心が分からない悩みがなからなければ、ね。信心が分からん。お話を頂いても頂いても心が開けない。信心に楽しみも喜びが湧かん。ね。
そこで、本気で信心を求めるということに、まあなるのでございます。おかげを受けられない。「おかげを受けたい」と言う前に、私は、そうしたひとつ、信心の悩みを味合わしてもらい、そしてそれが、少しずつでも分からして頂く楽しみ、喜び。ここには信心の稽古にくるところと仰るのでございますから、信心の稽古を本気でさしてもらう。
ところが、繰り返し繰り返し、あのような事は、もう何回繰り返し頂いたか分からんのだけれども、自分のものになっていない。どういうことであろうかと、そこに私あの、悩んで持てれるように、信心が分からん。信心の喜びが湧かん。どうしたことであろうか、というような、私は、悩みの持たして頂くということは、また有り難いことだと思う。
「信心の悩み」おかげの受けられん悩みじゃつまらん。ね。どうして楽になれないであろうかと。ね。どうしていつまでもお金に不自由しておるであろうか。健康になれんのであろうか、ということなら、私は、信心じゃなくてもいい。金が足りんなら一生懸命、もう少し働きゃ足りるのだ、と思うて働きを工面をしたらいいし。ね。健康の事での悩みであるならば、それは、お医者さんにかかって、良い薬を飲まして頂いたら、それの方が早く解決するかもしれん。ね。
けれどもひとつ、信心を分かりたい。信心の稽古をしたい。ね。そこに悩みが生ずる。何の稽古でも同じこと。始めの間は、ね。二、三日お参りをすると、「確かに、はあ、信心ちゃ有り難いなぁ」と。お話を一遍頂いて、心の底から涙が流れるように有り難い。ね。確かに喜びの芽が出る。ね。
先日も、久留米から久富と言う方が参って来た。ああ、んなら久富さんとこの一門ですか。ここでは久富さんがたいへん多い。ところが「あの久富とは違う。私の方は、大きな久富だ」と答えた。ほんだら久富先生所の、まあ、もとは一門だっただろうという方なんでしたけれども。
学校の先生をしておられ、引き揚げて帰ってきた。それから、次々と子供が病気をする、ご主人が亡くなられる。もうとにかく難儀が続いとる中に、女手ひとつで、まあ学校の教員をしながら、子供たちをようやく大学というところまで進ませた。
ところが最近、兄弟の方達がその、家を売りたいと。兄弟の方達が、娘さんが嫁にやらなん。それで金が要るからその家を売ってから、それを分けてくれ、とこう言うわけなんです。ね。
もうそこで迷いが起こってきた。ひとつには、またほんとにもう手放そうかとも思う。と言うのは、その家を買って建てて、次々と病人がおるから、これは、家にけちが憑いとるのじゃなかろうか、というような思いもやっぱりあるもんですから、そういうことを言われる。それが心にいつも引っかかっておる。ね。
それでその事の、まあ迷いに迷い、ったあげくに合楽の金光様にお参りをして、ひとつお尋ねをしようということで、お参りをしてみえたらしい。もう聞くと、お話が非常に深刻です。親子兄弟、もう(まんじどもりに?)その悩んでしまっておるだけではなくて、自分の心の中にはです、「これはもういっそほんと売った方がいいのかもしれん。思いがそこから変わるのかもしれんといったような気持ちまである」と言うのです。
ちょうど、私が4時の御祈念をさして頂こうと思うて出てまいりましたら、もう、久富氏のお取次ぎを頂いて帰ろうとしておられるところへ、でおられましたから、また私改めて、その事の御神意を伺わしてもろうた。そして、今売るとか売らないとかいったようなことではなくてね、まあ、今日から、例えば売るにしても、お繰り合わせを頂かなければならんでしょうが。して、皆も喜び、皆で立ち行くようなおかげを受けなきゃならんから、今日を起点として、その家の事を願って、そしてそこに、素晴らしい「はあ、これこそおかげであろう」というタイミングの良いおかげを受けてから、お願いを為さなきゃいけません。と言うて私は、もうすぐ時間ですから、御祈念にかからせて頂いたら、まあだ朝の御祈念を頂きながら待っておられます。それで私、控えに、してから、まあいろいろとお話をさして頂くのでございます。
ちょうど、今度の御本部参拝から京都までまいりました。それで京都にまいりましてあの、比叡山を一日拝観さして頂きましたから、その比叡山での私は、ちょうど私どもがまいりました時に、お話が、お説教があっておりました。
もうほんとに、当時の仏教の中心地であり、ね。根本本堂ですから、というところに、当時のあらゆる瞑想知識と言われる方達が、もうそれこそ(?)のように全国から集まってきた。当時の日本にある美術機器、美術品のほとんどが比叡山に集まったと言われておる。美術品のようなものでも。
それに、いわゆるその宗教を求めて、いよいよほんとの信心。信心の共励場です。または修行場なんです。ですから、日蓮も修行しておれば、法然も親鸞も、時代こそ違え、やはりあのお山で修行しておるのでございます。
お参りをさして頂きますと何とはなしに有り難いのです。信長の焼き打ちを、にあって、もうその時、全てが灰塵になったけれども、その法灯だけは燃え続けさせることができたと言うておられ、千二百年間燃え続けておるそうです。三つのお灯りがですね、千二百年間燃え続けておる。ね。
それでそちらで、間のその、お坊さんのお説教を聞かして頂きながらです、うん。どの宗祖も教祖もですね、偉い坊様達がぎりぎりのところをどういうところにその、「人間の幸せとは」ということを求めておられる、悟っておられるかと言うとですね。第一にね、「腹を立てるな」と言う。それから次に「不足を言うな」ということ。次に「貪欲をするな」欲を貪るなと。もうそういうような事で、それこそ血みどろの修行が繰り返される。そしてそこに、ぎりぎり得られたものは、この三つである。と言うて、お話をされました。
あらゆる神とか、その三つの事について、いわゆる家庭問題、経済問題、または健康の問題といったような事を織り交ぜながら、お話になりました。ね。そして最後に結ばれました。「このように尊い教えを頂いておるけれども、言う事は易くて、行なう事は実に難しいんだ」と結ばれました。
実は、私どももそれはできてはいない。ということでしたから、私はほんとに残念なことだなぁと思うた。でそういう素晴らしい、例えば、人間の幸せになれるもとというものをです、ね。発見されながら、それが発見されただけであって、それを難しいものにしてしもうた。いわゆる、棚の上のものになってしまった。
私は聞きながら思うた。「はあ、これは私が思うておることと同じだ」と思うた。ただ違うのは、ね、私は、それを行のうことが楽しいんだと分からして頂いておることであります。ね。
腹を立ててはならん。不足を言うちゃぁならん。貪欲をしちゃぁならん。欲を貪っちゃぁならん。ね。その事に本気で取り組ませて頂いたら、ね。それが、その取り組む稽古というものが非常に有り難いものになってきた、という。
ははあ、そこに現在の仏教の廃退があるんだなぁ、ということを、私は思わして頂いて、それを強く感じる。でその話を私は、その久富さんにさして頂いたら、もうそれこそ、とめどもなしに涙を流されました。「分かりませんでした。知りませんでした。いいえ、私どもも勉強して、そのくらいの事は知っておりましたけれども、それを行のうことが楽しいということは、今始めて聞きました」と言うて感動されました。ね。
学校の先生をなさるくらいですから、ね。そういう事は知っておりました。勉強をしてそういう事を分かっておりました。宗祖教祖がそういうことを言われました事を知っておりましたけれども、それはやはり、「言う事は易くても行なう事は難しいもの」だとしておりましたが、親先生のお話を頂いておりますとです、その事が合楽の先生は楽しいと言われる。しかも「難しい事ではない、楽しい体験が次々と積み上げられていくところに、現在の私のおかげがある」と私はお話したら、もうそれこそ、始めて聞いたそのお話に感動されて、ね。「これから私の運命が変わってくるだろう」という意味の事を言うて帰られましたようにです、ここにお参りをすると、何がなしかそういう信心の喜びというものが、湧いてくるんです。そういう芽が出るんです。ね。
信心の稽古をさしてもらうということは、そういうものをです、いよいよ、伸ばしに伸ばして、育てに育てて行くということなんです。ね。
今日私、4時の奉仕終わって、立とうとしましたら、小さい子供が「先生新聞ができました」と言うて、裏から持ってきてくれた。今月号の新聞ができ上がってきておるんです。もうそれこそ一気に読ませて頂きました。素晴らしいですね、合楽の新聞は。
私が話したこと、また皆さんも聞かれた話。しかも何遍も。それが読ませて頂いて、あらためてまた有り難い。はあ、合楽の新聞は有り難いなぁ、思たとです。ね。
中に、「神愛欄」に、今度は秋永嘉朗さんの家内の由起子さんが書いております。「これは、由起子も、いよいよ俺達は信心を求めて、本気で信心を分からして頂いて、お徳を受ける以外にはなかばい。俺はこれから朝参りを始める」と言うて、主人が朝参りを始めましたから、今までぶら下がっておった信心から、ぶら下がっておってはならん。それではならん、と思うわせて頂いて、ね。もうそれをね、後押しをさして頂く勢いの信心を私がさして頂かなければ、というような思いを綴って「神愛欄」に書いてある。ね。
「信心は家庭に不和がなきがもとなり」このもとのところをですね、皆さん頂かにゃいけません。それは家庭が、信心で言うのはね、円満に行っておるということではない。今日、あの、竹内先生の「道理に合う信心」という事の欄にも、そんな事が書いてありますしね。
「あいよかけよ」というのは、人情で相満たないといったようなものではないのだと。金光様のご信心で言う「あいよかけよ」っていうのは。ね。自分の好きなものには「あいよかけよ」するけれども、嫌いなものには「あいよかけよ」しないってそういうようなものじゃないのだと。ね。ということを書いておられますように、ね。
信心で言うところの「信心には家庭に不和のなきがもと」ということは、ただ、(こっとる?)とも言わんとか、仲良うしておるというような意味じゃないっていうこと。ね。どういうようなことだろうと思た。私も、それはやっぱり有り難いと思うですけれどもね。教祖の仰っておられる、例えば、信心に家庭に不和のないのがもとだ、と仰るのは、そういう、ただ家の中に波風の立たないというだけのことではないと。ね。
そういうところをひとつ分からして頂く為にです、本気でお互いが、信心の稽古をさして頂こう。ね。信心の、お互いがさしてもらうなら、悩みを持たなきゃいけん。そして、その悩みが解決していく喜びが、信心の喜びである。ね。
迷うもよかろう。疑うもよかろう。それはどこまでも信心である。それは、より立派なものをより有り難いものを頂かして頂く為の、迷いであり、疑いである。その疑いが晴れる。その迷いが晴れる。そこから新たな信心の喜びの道が開けてくる。
お互いが、悩みもなからなければ、苦しみもない、というのは、それはちょっとおかしい。ただ悩んでおるなら、金のないことだけに悩んでおる、というような悩みではいけない。
お互い、信心の稽古さして頂くのであるから、信心の稽古がおもしろいごとできる時もあるかと思うと、また、一切、いわゆるスランプ状態という時がある。もうほんとに信心を止めようかとさえ思うようなことがある。ね。そういうところをです、悩みに悩み、そこから分からして頂くもの、それを分からして頂くものは、私は今は、合楽のお広前をおいて、他にはたくさんなかろう、とこう思う。
合楽ならば分かる。合楽に本気でくるならば、そこんところが解決する、と私は確信を持たして頂くのでございます。ね。
昨日、昨日、一昨日でした。ちょうど、夜の御祈念前に、ここの村内の、指出の方かなんかでしたか。一人の方が参ってきた。それで実は、私の方は、明日その、地鎮祭をしてもらいたい。同時にその、今度井戸を埋めたいというわけですね。水道にするから。それでまあ、(すいじなげ?)と言うですか、そういう事もついでにしてもらいたい。
それでまあいろいろと、お話をして、そんならもう一遍明日、あの事務所の方で、若い先生方がおりますから、相談にまあ一遍来て下さい、と言うておりましたから、まあ朝早くみえたらしい。それでそれを若先生が受けておりましたから、若先生が祝詞を書かしてもらい、光昭と末永さんは、一生懸命、その準備の、をいろいろ、お三方、八足を持って行ったり、三方を持って行ったり、様々なその準備に、をいたしておりました。
それでまあ、じゃぁ準備ができましたから、今日は、誰のおかげ頂くんだろう。誰のおかげ頂くのか、と言ったら、若先生と光昭がおかげ頂く。もう若先生装束を着けて来た。光昭もちょっと奉仕、あの、白衣に袴を着けて、あの暑い中に、今から行こうと。
ちょうど、高橋さんがみえておられたから、車に乗せて行ってもらったらしいんですけれども。兄弟二人がそうしてです、ね。「明日はどこどこに地鎮祭があるから、お前達は兄弟で行ってくれ」とも言わなければ、ね。何にも、それはもう当たり前の事として、その事を兄弟二人が、成しておるその後ろ姿を拝ませて頂いて、私はお礼を申さしてもらおうと思うた。
ほんとにね、例えば、そういう、言うなら注文があってもですよね、注文がきても、配達せんちゅう息子がいるなら、どんこんされん。私が配達しに行かにゃいかん。それをもう、当然のこととして、長男と二番目どんが話し合って、ちゃんとその、お祭りの準備をしてから、向こうにやらして頂いておるのを見てから、有り難いなぁと私は思わせて頂いて、お礼を申さして頂いておったら。
●私がね、こうやってかがんでその、刀を打っておるところを頂いた。その両端から、光昭と勝彦がですね、あのトッテンカントッテンカンというその、刀打ちのあの場面を頂いた。装束を着けて。ね、絵に見るでしょう。ね。いわゆる、向こう、向こうというですか、それが二人向き合って、いわゆる阿吽の呼吸をとりながら、刀を打ち上げて行く。いわゆる真剣を打ち上げて行く。そういう情景を、まあ頂いたのでございますけれども、また改めてその事をお礼申さして頂いたんですけれどもね。
私はね、信心さして頂いてね、一番大事な事は、ね。「家庭に不和のなきがもと」と仰るが、それは、ブッスリガッスリ言わん、堪えときゃええ、辛抱しときゃええといったようなことではなくてです、ある場合は火花を散らす事もあってもいいのだ。ね。
けれどもね、それは、ひとつのそこの、例えば、「正宗」のような、言わば真剣がです、ね。それが一家中を上げて、打ち上げられていくというようなことだと私は思わしてもらう。一家中の者が、言うならば、その事に焦点を置いて、一家中の者が、その事に、ある場合は火花を散らしながらです。ある場合はね、暑い湯加減、冷たい熱加減を分からして頂きながら、ね。一振りの刀が打ち鍛えられていくようなものが成就していっておる。家の中に。ね。そういう、私は、事柄をもって、家庭に不和がないということは、そういうことだと。
まあ、それを言うならば、例えば、大坪なら大坪の家の上に、神様の願いが、そのようにして成就していっておるというようなことがです、しかもそれが、ね、家内も子供もその事にです、ね、焦点を置いておるということがです。家庭に、信心は家庭に不和のなきがもとである。
そこへ、どちらがチンバを踏んでも、どちらが嫌と言うてもできないこと。それこそ阿吽の呼吸が、ピッタリとそこに合わなければできないことである。神様の願いがそのようにして成就していくということである、と私は思うのでございます。ね。
だから、そういう願いを持ってです、そういう願いが、どうして成就していかないのか。そういうおかげが、どうして受けられんのかというところにです、私は、信心の悩みと言うなら、悩みを持たなきゃいけない。
そして、今朝方の御理解じゃないけれどもです、「これほど信心するのに」と思わずに、「これはまだ信心が足りぬからだ」と思うて、信心を、一心の信心をしていけば、そこからおかげが受けられるという、そこからのおかげが展開してくる。
私は、今日の新聞を見せて頂いとりましたら、期せずして、今朝、私が御理解を説かして頂きました、その「これはまだ信心が足りぬからだ」という、あの御理解が、御理解集から抜粋されて、あの一番初めのところに出ておる。
見出しに、「百マイナスのゼロ、イコール百」と。いつかこんな御理解を頂いたことがありますね。ね。私は、それを御神前で、朝の御祈念に頂いたんです。ね。百引くのですよ、ね、マイナスのゼロ。イコールは、やっぱり百なんです。神様から私ども、百そのものを頂いておるんだ。生まれてくる時に。ね。生神としての値打ちを備えておるのだ。
それを私どもの、我情が我欲が、その百にならない、ね。そこで私は、その百から、ゼロ、丸を引くということはです、その当時の御理解を頂きますと、ほんとにそうだったなぁと思わして頂いたんですけれども。42節が今日の御理解だった。今朝の御理解。
その42節は、42節その「しに」と書いてある。だからこれは、結局、私自身が空しゅうなって行くことだということ。ね。さっきから私が申しますようにね。腹を立てるもとがどこにかある。不足不満を言うもとがある。ね。貪欲をするもとがある。そのもとを発見する。そのもとを聞かしてもらい、分からしてもろうて、そういう腹の立てねばならんもとやら、不平不足のもとやらを取り除かして頂くということに、本気になる。それを丸い円をもって例を話してある。ね。
この丸い、ひとつの、わん、輪がです、まあ百といたしますなら、この中にね、不平不足が二十ある。ね。貪欲なのが二十ある。腹を立てるというのが二十ある。そうすると、せっかく頂いておる、その百そのものがです、ちゃんと四十になってしまっておる。それが三十ずつであれば、もう十になっておる。それが四十ずつであれば、むしろマイナスになっておる。ね。いわゆる人間の面かぶっておるだけで、犬畜生のようなってのは、もうマイナスになっておるとです。
そのような御理解が、今度の新聞のそれに出ておるのを読ませて頂いてから、私は思うです。ね。私どもが、ね。家庭の不和が、私が今日申します「家庭に不和のなきがもと」といったようのは、ね。自分がそこに出しゃばり過ぎとる。自分というのが空しゅうなっていない。ね。
それを、まあ私の最近の信心で言うなら、「黙って受けて黙って与える」というようなことができていない。ね。そこからね、「信心は家庭に不和のなきがもとである」というような、そこに、主人が本気でその事にならして頂こうというならばです、んなら家内が、ね。一緒にということはできんでも、それにぶら下がるようなことはあってはならない。後押しぐらいはさしてもらわねばならん、という信心に進ましてもらうといったような信心の稽古。
んなら、そのぶら下がらないということは、どういうようなことか。お徳を受ける為の信心とは、どういうようなことか。ね。それは朝参りということだけではない。今朝の御理解。ね。
そういう、私は、信心を繰り返さして頂く中からです、分からして頂く喜び。行き詰まった、言わば、悩みが生じてくる。その悩みを解決さして頂くものが合楽のお広前、私は、以外にないと言うとたいへんおかしいんですけれどもね。合楽のお広前でなら、必ずそれが解答を与えられる、というふうに思うのです。
だから、その願う焦点というか、その、お互いが、悩みの焦点というものがです、金がないから、おかげを受けられんからの悩みであってはならない。ね。これだけ毎日お話を頂かしてもらいよるとに、どうして分からんだろうかと。ね。というところにひとつ、悩みが起こってくるような信心を頂きたい。ね。そこからその悩みが解決する。そこから「信心の喜び」が生まれてくる。ね。
そこでどういうことになるでしょうか。私が比叡山で聞かせて頂いたお話じゃないですけれども、「ははあ、これは、まるきり法然も親鸞も日蓮も、私の信心の裏付けをして下さっておるようにあるんだなぁ」ということである。ね。
私は、仏教というのは、言わば、あの世でばっかりの助かりを言うたかと思うたら、そうじゃない。ね。(御霊浄土?)と言うのは、ね。もう三万石土の所しかないというふうに思うておったが、そうではない。当時の偉い坊さん達は皆、この世に浄土を気付かせて頂くということが狙いであった、ということである。同じこと。ね。
ただ、金光様のご信心の素晴らしいところはです、ね。金光様のご信心の、いよいよ素晴らしいところは、お取次ぎを頂いて、お取次ぎの働きというものがある。ね。お互いが信じきれて行くというところに値打ちがある。
今朝の奉修委員の方達の中に、北野の秋山さんがお届けしておられる。ね。子供が、単車を買うと言う。あんたそんな、「なら俺の給料からなくとも(こちらで買うてくれえ?)」と言う。お母さんは、そげなまぁだよしげな。そして、まあとにかく親先生にお届けどもしてから、ということであった。ね。
お父さんの気持ちになってみればですね、言わば、ちょうど一番大事な時であるから、また、買うてくれと言うたら買うてやらんと、また、このあの、(よまぐれどん?)しちゃならん。また、より良い子になってもらう為に、子供の言い分も聞いてやろう、と言うのがお父さんの考えらしい。ね。
ところが、秋山さんの方はです、例えばそれを買うやる、その、買うてやるということがです、その事によってです、また難儀でもつくり出すようなことあっちゃならん。学校に通うだけならそげなもんいらん。また、自分が遊び回ろうと思てから、言いよるとじゃから、そげなもの買うてやらんがよかろう、とこう思うけれども、親先生が買うてやれと仰りゃ買うてやろう。お願いしとかなければ、またどういう事故どん起こしちゃならんから、というのがお母さんの思いであったらしい。
その事を私聞かせて頂いておりましたらね。●「楽になる」か。皆さん覚えてなかったですかね。「楽な思い」というか、まあそんな事を頂くんです。ね。
例えばそら、お父さんの考え方もそれはダメ、いけない。ね。あんたの考え方もいけない。ね。もっともっと楽な、お父さんが「買うてやろう」と言うとるならばです、あんたはもっともっと楽な思いにならなければいけない。もちろんお取次ぎを頂いて、ね。お取次ぎを頂いて単車を買わして頂きゃ、事故も起こらん、ケガも過ちもないように、と言うんじゃなくて。
買うて、お取次ぎを頂いて、ね。起きてくることはです、それは「たとえ悪いことであってもみな良い」という信念なんです。「お取次ぎを頂かずして起きてきたことは、良いことであってもみな悪い」という高橋先生のあの名言なのだ。
そこんところの思い込みができる、というところがです、そこんところを信じれれるということが、金光教の信心の独壇場だと私は思いました。ここんとこのお取次ぎの作用と言うかね、お取次ぎの働きというものを、私は、体験さして頂くところにです、お道の信心の、と、または、他の宗旨・宗派の違いがある、といったようなことを感じました。うん。
同時にまた、その、宗祖、お坊さん方が一生懸命苦労された事はですね。とにかくその、人間というものを殺してしまうというか、ね。「欲しいものを殺す」例えば、妻帯もできない、肉食もできない、お酒も飲めないというようなもう、それこそ、もう人間業ではできないような、人間を、その、変形してしまうようなですね、その修行に取り組まれたというところに間違いがあるようです。ね。
教祖の神様は、例えば、食物訓の上においてもです、人間の生命のために、天地の神がつくり与えたもうのだから、有り難く頂くことを、と仰っておられます。実に広い広大無辺な教えだなぁということを分かります。と同時に、お取次ぎを頂いてです、ね。「お取次ぎを頂いて起きてきたことは、悪いことのようであってもみな良い」と確信できるということがです、楽な心になるということだ、と今日頂いた。ね。
そこまでをお互いの信心の修行というものが、積まれなければならない。「(冗談のことあったもんじゃない。?)交通事故にでも遭わんごとお取次ぎを頂きよるとですよ」という時代からですね、お取次ぎを頂いたら、もうお任せするという楽な心でおかげを頂いたらよい、といったような御理解頂いたんですけれどもね。確かにそうだ、とこう思うんです。ね。
だから、そこまでお互いの信心を高めて行く為にはね、自分があったりです、ね。さっきから申します様々な、自分というものが空しゅうできない。自分というもの空しゅうすることができない。欲の取ることできない。腹立つもとを取らない。不足を言うもとを取らない。
取らないではです、私の言うことに非常に矛盾が起きてくるのです。冗談のこと私は、事故に出遭わんごとお参りしよるとですよ、ということになってくる。ですから、そういう思いを取らせて頂くところからです、「家庭に不和のなきがもと」といったような、神様の願いが、その家の上に成就していく。その願いがご成就になることの為にです、家族の者がそれに打ち込んで行けれる、と言う信心が生まれてくる。うん。
「自分というものが、そこに空しゅうなっていく」というところからです、ね。言わば、三つの事柄といったようなものが、だんだん影を潜めてくる。それを取ってしまわなければっていうのでもないのです。ね。「そうだ」と思い込むことなんです。ね。「腹を立てちゃぁならん」「不足を言うちゃぁならん」「貪欲をしちゃぁならん」「これがあったんでは、人間らしゅう幸せにはなれんのだ」と思い込ましてもろうて、それを一分ずつでも一厘ずつでも、自分の心の中から、そういうような幸せになることのできないもとを取り除いて行く姿勢が大事なんだ。
そういうところをはっきりしておいてです、ね。今朝から頂きます、または、今度の新聞の百マイナスのゼロ、ね。イコール百という、ね。神様から頂いておる、その「百そのものをこの世に現して行こう」というのが、お道の信心だ。ね。
それを現して行くことの為に、お互いが信心の修行をする。ね。そこには、修行の苦しさも悲しさも、または、つらさもありますけれども。また、修行の楽しさ喜びもそこにあるということをです、体験さしてもらう。ね。
そのお坊さんが言われるように、「言うことは易くて、行うことは難しい」と言われるけれども、実を言うたら、それを行うことが合楽で教えて頂いておる信心であると。ね。それを行なうということが楽しいんだと。ね。その行い加減というところをです、ね、それぞれの信心の程度に応じて、教えを頂いて行こうというのが、私は、日々の朝の御理解であるというふうに思うのです。ね。
どうぞひとつ、信心の稽古をさして頂くならばです、必ずそこに、信心の悩みができなきゃならん。おかげの頂けれる悩みばっかりを、なって頭が痛うなってる、いうようなこっちゃできん。ね。信心が分からんからおかげが受けられんのであるから、どうして信心が分からんのであるか、と言う為にはね、行じてみなければ、分かるも分からんも分からん。ね。
本気でそのことにです、取り組まして頂く楽しみの分かるところまで、お互いの信心を進めて行きたいもんだと思いますね。どうぞ。
明渡 孝